「完璧主義」6

 

 

『私は逃げるように無視して渋谷から遠ざかった。

「おい、待て」渋谷は追ってきた。

何のことはないただの追いかけっこだ。逃げ切れば勝ち、追いつけば勝ちだ。

走ってはいけないので廊下は競歩しましょう。そんな文句を言っていた小学生の時の一個上の悪ガキ児童を思い出した。その悪ガキは悪ガキのくせに競歩というものを知っていて、これは走ってるんじゃない走り歩きしてるんだ、という言い訳を先生にして、軽いゲンコツを食らっていた。

看護師からゲンコツを食らうだろうか。ここは学校ではない。教育現場ではなく医療現場だ。ゲンコツじゃなく安定剤を食らわされるかもしれない。

案の定看護師は、「静かにしてください。ほかの患者にぶつかったら危ないでしょ!」と注意した。

私は立ち止った。が、渋谷はまだ追ってきた。

看護師に渋谷を捕まえてもらいたかったが、そんなことに構ってられないくらい忙しいのだろう。看護師は去って行った。

とうとう渋谷は私のところまできて、「おい、タバコよこせ」と言った。

なんでこいつにタバコを与える義理があるのだろうか。私は今、人に与えられるほど

タバコの本数に余裕はない。

おとなしくさせるために与えたほうが良いのだろうか。

「タバコをやったら、お前は私に何をくれる?」私は、至って真面目にそう言った。

この場所でギブアンドテイクが成り立つはずがないのはわかりきっているが、渋谷が何と答えるのか気になった。

「はあ? なんで俺がお前に何かをやらなきゃいけない。お前は俺に嘘をついたからタバコをよこすんだよ」

無理が通れば道理は引っ込むというのだろうか。ここではもしかしたらそうかもしれない。だが引っ込むのはこちらではなく、向こうのはずだ。

私は意を決し、「お前はタバコのことしか考えられないから、いつまでもこんなところにいるんだぞ。シャバに出れば好きな時に好きなだけ誰にも邪魔されずにタバコを吸えるんだ。少しはここから出る努力をしろ」

渋谷は少しひるんだように見えた。だがまた悪態をつき、その辺の椅子を蹴飛ばし、ちくしょーと叫んで去って行った。

私は肩で深いため息をつき、後に残ったかわいそうな椅子を元に戻そうとした。

「あんた、いいこと言うな。あいつにはいい薬だったろう」坂本がいつの間にか来ていて、私が戻そうとした椅子を片手でひょいと直した。

「見ていたんなら、助けてくださいよ。坂本さん」

「いや、俺だってここでのトラブルは避けたいからな」坂本は笑って言った。坂本の白い顎鬚が弱々しく動いた。大人の対応なのか、そうじゃないのか私にはわからない。本当の大人とは何なのか。私はこの人を見るたびに考えさせられているような気がする。

「あ、坂本さん。今日竹林が午後から外出するので—」

「ああ、若松の奴から聴いてる。午前中ならできるんだろ?」といって坂本は倒牌する手の動きをした。

「はい。やりますか?」

ったりめーだ、と言って坂本は露骨に喜んだ。

 

「リーチ!」若松が叫んだ。パイを横に置き、千点棒をぽいと放り投げた。

「今日もあんた調子いいな」坂本は若松に臆せず、いわゆるポーカーフェイスで対応した。

「リーチ」竹林が小声で若松の後に続くように言った。気取っているのか、冷静なのかわからない。

それが麻雀だ。

「ロン!」坂本が竹林のリーチ宣言パイであがった。

それも麻雀だ。

「竹林君。君はもうちょっと考えて打った方がいいな」と、坂本が中学校の先生のように言った。

竹林は何も言わず、坂本に点棒を払った。

竹林は今日、何かいつもと違う。私はそんな気がした。深刻に考える必要はないかもしれないが、何かぬぐい切れないものが竹林の表情から伺えた。

「麻雀は釣りと同じよ。ただ待つだけの釣りもあれば、ひたすら攻める釣りだってある。だが、その哲学に負けたら麻雀も釣りも負ける。あんたはまだわかってないな」

坂本は哲学がどうのとスケールが大きい話をしだした。

竹林は坂本の話を聞いてるのか聞いてないのか、何も言わずに麻雀パイをかき混ぜている。

竹林が何かかわいそうな気がした。別にいじめられているわけではないのだが、竹林の表情が物言わぬ幽霊のようにも、冷徹な鬼のようにも見えた。

何か嫌な予感がする。』

 

 

続きは次回更新にて!