「完璧主義」8

 

 

『竹林は誰かに殴られたようだった。

詰所の中はハチの巣をつついたかのように慌ただしい。

看護師たちは竹林に緊急処置を施し、外来の処置室に移動させた。

もう竹林の姿は見えない。

「あれ、血だよな」若松がそばで呟いた。血の付いた包帯を見ている。

一番先に目についたのは確かに血だが、竹林の表情を見るとうなだれている様にも、恐怖に満ちている様にも見えた。私はそれが印象に残った。

心配だったが、命に別状はないようだ。

そういう問題ではないのかもしれない。私は何か腑に落ちない心持になった。

坂本がいつの間にか来て、「なんだあいつ。喧嘩でもしたのか?」と不謹慎なことを言った。坂本はあまり心配していないように見えた。

「あいつとは口喧嘩はするが、殴り合いの喧嘩はしない。あいつから吹っ掛けてくることもないはずだ。外出先でカラまれたに違いない」と若松は感情のこもってない口調で言った。

私たちは、竹林がここへ戻ってくるまで何があったか知ることは出来ない。

 

夜の六時ころ、竹林は私たちのいる病室へ入ってきた。入ってくるなりベッドに横になった。

「おい、何があったんだ?」若松が先に第一声をかけてやることは想像していたが、竹林だってすぐには答えられない事情だってあるだろう。気持ちの余裕もないはずだ。

「あとで話す」竹林は小声で言った。

「後でっていつだ?」若松は追及する。若松は人の気持ちを察するという行為を知らないのだろうか。

「うるさいな! ほっとけよ」竹林は怒鳴った。彼の包帯から、見えない口から、見えない鼻から、怒りを感じる。眼だけが私たちに、近づくなと訴えかけているのがわかる。

若松は竹林から真相を聞くのを諦め、布団をかぶった。

私も、竹林と若松のパーソナルスペースに距離を取って喫煙所へタバコを吸いに行った。

人と人が近づくということは必ずしも心理的な距離が近くなることではなく、離れるということもまた心理的な距離の問題には関係ないことであることは私自身良く知っている。時間が解決してくれるのかもしれない。私はそう思った。

喫煙所に入ると渋谷がいた。一瞬ためらったが、踵を返すのも癪に障るので堂々と中に入った。

渋谷の吐いた煙が私の体を撫でた。渋谷はタバコを誰かからもらったのだろう。きっと優しい人だ。タバコのやり取りは禁止されているが、看護師に見つからないように秘かにやり取りしている患者も中にはいる。

煙を吸ったり吐いたりしている渋谷はとてもおとなしく、今から暴れ出そうとする雰囲気はまるでない。

私も渋谷と向かい合うようにソファに座りタバコを吸った。

渋谷から話しかけてこないのを見ると、煙をじっくり堪能しているのだろう。

私はそういう人には自分から話しかけないでいることにしている。

三分くらい黙っていただろうか。その間渋谷がいつの間にかいなくなっていたことに気づかなかった。

急に沈黙が不快に感じた。寄せては返す不快な波。その波に飲み込まれないような場所にいるはずなのに、私は焦りを感じた。何かしなければ。

私はタバコを吸い終わると坂本のところへ行った。

坂本は大広間でテレビを独占して見ていた。どうやらクイズ番組を見ているらしい。

坂本は近づいてきた私に、「知ってるか。日本で一番離婚率が高い県は沖縄県なんだとよ。どうしてかわかるか?」と言った。あまり前向きなクイズとは言えない。

「わかりません」私は言う。

「沖縄は雀荘が多いからな。雀荘が多いところは離婚率が高いという統計があるんだとよ」

「そうなんですか」私は冷めた口調で言っていたかもしれない。

「漁師も船ん中でよく麻雀するけどよぉ、離婚はしねぇぞ。ちゃあんと嫁を大切にする」

「じゃあ、麻雀も結婚生活も楽しめて良いですね」私は適当に言った。

坂本は笑った。

笑ったかと思うと、坂本は急に悲しい顔になった。

「あいつ。雀荘に行ったんじゃねぇか?」と言った。』

 

 

続きは次回更新にて。